Fake・前編
ライターの火花が光る。
咥えた煙草に火をつけたライルは、一息吸うと指で摘んで、紫煙を吐き出した。
いつもより苦く感じる。それに味わえない。
ライルは煙草を咥えたまま、ぼんやりとソファに座っていた。
癖のある栗色の髪、透明感のある碧色の瞳。
端正な顔立ちであるのに、その表情は冴えなかった。
右手にある玄関のあたりから、ことり、と物音がした。
ライルははっとして、思わず視線を転じた。
暗色のドアを凝視するが、ドアは動く気配はない。
気のせいか。
何を期待している。
刹那が戻ってきたと思ったのか、オレは。
ライルは咥えていた煙草を離すと、苦い笑みを浮かべてそれを揉み消した。
ソファから立ち上がった時、チャイムが鳴った。
のろのろと近寄って、ドアを開ける。
そこに立っていた人物に目を見開いた。
癖のある栗色の髪、透明感のある碧色の瞳。鏡を見るように自分そっくりな長身の青年。
ライルの双子の兄、ニールだった。
「…兄さん」
「刹那の荷物はどこにある?」
ニールはそう言うと、ライルの横をすり抜け、室内に入っていった。
「あいつに頼まれた。持ってきて欲しいとな」
お前とは顔を合わせたくないそうだ。
ニールが振り向いて言った。
ライルは思わず、隣の部屋を指差す。そこが刹那の部屋だった。
ニールはそのまま、刹那の部屋に入っていった。
しばらくして出て来たニールはボストンバックを肩に担いでいた。
「……刹那は、兄さんのところにいるのか」
「ああ」
ニールは短く返答すると、そのまま部屋を出て行こうとした。
「兄さん、オレになにか言うことはないのかよ」
「ないぜ」
ニールはライルを一瞥すると、再び視線を転じた。
「オレから刹那を奪っておいて、その態度はないだろう……!」
ライルは拳を握りしめた。憤った声が歯の隙間から零れる。
ニールはボストンバックを床に置くと、ライルの方に歩いてきた。
ライルの視線を正面から受け止める。
「……手を離したのはお前だ、ライル。
そのことについて、俺は謝る気はない」
それに選ぶのは、刹那だ。
兄さんはいつもそうだ、とライルは言った。
「兄さんの言うことは正しい。その通りさ、一言も言い返せないよ。
誰だって兄さんの方を見る、兄さんの言うことを聞く、兄さんを好きになる…!
オレはいつもその影だ。そんな気持ちなんてわかんないよな!!」
ライルは碧色の瞳を怒りで燃え上がらせてニールを睨んだ。
何も言わず、その顔を見つめていたニールが言った。
「気はすんだか?ライル」
「……何だよ、それ」
まったく相手にされていなかった、そういう態度も気にいらない。
ニールは踵を返すと、床に置いていたボストンを再び担ぎ上げた。
「ライル。お前が俺を好きじゃないのは分かってる。いくら俺を嫌ってもいい。
だがそう思っている限り、お前は幸せにはなれない」
「何だよ、それ!」
ニールは今度こそ振り向くことなく、部屋を出て行った。
バタンとドアが閉じる音に、ライルは刹那がこの部屋を出て行った時を思い出していた。
刹那・F・セイエイと出会ったのは、ライル・ディランディが大学3年の時だった。
彼は、イアン・ヴァスティ教授の研究室に入ってきた新入生だった。
容姿が好みだったから、自分からアプローチした感じで付き合い、
程なくして一緒に暮らし始めた。
最初は、今ほどの思いではなかったと思う。
研究室や、同学年の遊び仲間が、男女問わずなぜか刹那を気に入ることが多かったから、
ライルとしては、出し抜いてやりたい、という気持ちも少しはあった。
付き合い出した後の自分は、刹那にとって決していい恋人ではなかった、と思う。
人類が、外宇宙まで、進出を果たしたこの時代。
地球を中心とした人類居住惑星は20を超え、惑星連合として互いに友好状態を保ちつつ、
年月を重ねていた。
この時代、子供はスタンダード型の精子、卵子と人工子宮で、簡単に作ることができる。
いまやSEXという行為において、自らの遺伝子を残す、という意味はほぼ失われた。
変って意味合いが強くなったのは、気持ちを確かめあうことと、
快楽をもたらす行為であるということ。
人々の意識は徐々に変っていく。
今では、同性間での恋愛、結婚も普通に認められていた。
ライルはどちらかと言えば、異性を好んでおり、今まで付き合ったのは皆女性。
同性は刹那が初めてだった。
刹那にとっては、自分が初めてつきあった相手だった。
初めてである、という新鮮味が薄れてきた後、
ライルは再び女性に手を出すようになった。
その甘い顔立ちと、要領のいい性格から、ライルは非常にもてた。
複数と同時に付き合ったのも、一度や二度ではない。
そのことでは、必ず口論になったが、
最後はいつも、ライルが謝って、刹那がそれを許すパターン。
刹那が自分を好きだと、分かっていたからこその行動、甘え。
自分はタカを括っていたのだ。
それが覆されたのは、半年前。
刹那が大学3年、自分が大学院生になってすぐの時だった。
自分達が通う、ケルディム大学と姉妹校のデュナメス大学との間で、
研究室の学生同士の交流を兼ねた、短期交歓留学があった。
イアンの研究室からは、刹那とティエリアが行くことになった。
そこで刹那は、ニールに会ったのだ、ライルの双子の兄に。
ライルはそこまで思い返すと、さっきまで自分のいたソファに座りこんだ。
ニール・ディランディ。
その名前を呟く時、ライルの心に浮かび上がる感情は苦い。
ライルとは一卵性双生児で、兄にあたるこの男は、
姿形はそっくりだが、自分とは全く違った。
とにかく何をやらせても、飛び抜けて優秀だった。
勉強も、スポーツも、何もかも。おまけに自分と違って、性格までいい。
ライルは子供の頃から、この兄と常に比較されて育ってきた。
何をやっても、どうやっても勝てない。
いつしか心には、強烈な劣等感が生まれた。
それだけではない。
皆ニールの方を好きになる、出会った人間誰もが。ライルの鬱屈は更に深まった。
なまじ自分も人より優秀であることは自覚していた。
ライルはそれすら恨みたくなった。
出来が悪ければ、周りもそこまで比べようとはしなかっただろう。
見た限りでは同じように見えるから比べる。
比べた結果、兄を選ぶ。
自分は兄の紛い物のようだった。
そんな兄に、刹那が出会ったのだ。
ライルの意識が再び過去に向かう。
交歓留学の期間、二人が住む部屋に帰ってくると、
楽しそうに向こうの様子を、ニールのことを、刹那は話して来た。
ライルは嫌な予感を覚えた。
程なくして、その予感は正しかったことを知る。
ある日、ライルは見てしまったのだ。
用事があって訪れた、向こうの大学で、刹那がニールと楽しそうに笑い合う姿を。
刹那のそんな笑顔を、ライルは見たことがなかった。
あんな顔、彼は自分には向けない。
心がささくれ立つような、痛みと苦しさ。
そこから、刹那と自分の関係はこじれていった。
決定打となったのはあの日、刹那の交歓留学が終わる日。
刹那を迎えに行って、二人がキスする光景を見た時。
ああ、やっぱり、と思った。
やはり刹那も、兄を好きになった。
同じモノなら、兄さんの方がいいに決まってる。
ライルはそう思った。
だが、胸の裡から、どろどろとした、マグマのようなものが、
せり上がってくるのを感じた。
怒り、悲しみ、憤り、やるせなさ。
様々な感情が混じりあって渦を巻き、そして気がついた。
何だかんだ言いながら、自分もこんなに刹那が好きだったのだ、と。
そう、心から。
浮気もした。
最初はともかく、最近は構ってやることもなく、大事にもしていなかった。
愛想を尽かされていてもおかしくない恋人だったのに。
誰にも渡したくない、初めてそう思った。
なのに、自分は間違えた。
ライルはソファに座ったまま、天井を見上げて、笑った。
自分で自分を馬鹿にした、自虐の笑いだった。
交歓留学が終わった夜、帰宅した刹那に詰め寄った。
刹那が兄とキスするところを見た、と。
「お前は兄さんが好きなのか?兄さんと寝たのか」と。
刹那は、苦し気に顔を歪めた後、「俺は…」と言った。
ライルは刹那から、決定的な言葉を聞くのが怖くなった。
自分から聞いたくせに、詰め寄ったくせに、刹那の返事は聞きたくなかった。
そして、刹那の身体を無理矢理抱いた。
刹那は「嫌だ」と拒んだ。
今まで自分が求めた時、刹那が拒んだことなどなかった。
それが兄を好きになったからだと思えて、ライルは刹那を罵った。
慣らしもしないで、自身を押し込み行為を始めた。
強引な挿入で、切れた刹那の秘所から流れる血を潤滑代りに、突き上げた。
つきあいはじめて2年。強姦紛いにこんな行為をしたのは初めてだった。
その後の事は、まるで映像を見せられるように、思い出すことが出来る。
「終わりにしよう」
行為が終わり、刹那も自分もシャワーを浴びて、身体を清めた後、ライルは言った。
「どうしてだ」
窓に向かって立ち、自分に背を向けているライルに、刹那は近寄ってきた。
肩に触れた手を、素っ気なく振り払うと、刹那に向き直った。
「嫌なんだよ」
ライルは言った。
刹那は兄さんを好きだ。そうだろ?
俺とこのままいたって、必ず兄さんと比べる。
ニールだったら、ってな。
悪いけど、オレはそれが一番嫌いなんだ。
比べられるのなんか、まっぴらなんだよ。
だから終わりにしたい。
兄さんの事を知ってる奴とは、比べる奴とは付き合いたくない。
男でも女でも、兄さんを知らない奴がいい。
我が儘を言う、子供のような態度だったと思う。
刹那は何も言わず、自分を見ていた。
自分の瞳を見つめていた。
そんな刹那を見続けられなくて、背をむけた。
「……わかった。お前がそう言うのなら」
痛い位の沈黙の後、刹那は静かに言った。
妙に冷静な声だった。
そのまま踵を返すと、帰って来た時に、
ダイニングの椅子にかけたままだった上着を手に取る。
「荷物は後で取りにくる」
刹那の言葉にも、ライルは反応しなかった。
淡々としたその様子が、癪に触って、言葉も返したくなかった。
ドアを開けた刹那が振り向く。
「お前との生活、楽しかった。感謝する」
その言葉には感情があった。
涙が出そうな程、優しい言い方だった。
刹那の言葉に、ライルが弾かれたように振り向く。
振り向いた時には、ドアは閉じられ、刹那の姿はその向こうに消えていた。
「…クソっ!」
ライルは遣り切れない思いで、罵声を吐いた。
それから3日たっての、突然の兄の来訪だった。
胸が灼けるように苦しかった。
こうなったのは誰のせいか。
刹那か、兄さんか、それとも自分か。
三人それぞれに、原因があることを理解しながら、
ライルは自分についてだけは、それを認めることができなかった。
<続>